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第1編 《人事行政》

【第2部】 人事院の創立、変遷と国家公務員人事管理における現代的課題

第1節 人事院の創立、変遷

4 昭和40年の国家公務員法の改正


(1) 改正の経緯

ILO第87号条約(結社の自由及び団結権の保護に関する条約)は、労使双方がそれぞれ公の機関に干渉を受けることなく、自由に結社し団結できるという原則を定めている。しかしながら、当時の公共企業体等労働関係法第4条第3項は、公共企業体等の労働組合の組合員・役員となれるのは職員に限る旨規定し、非現業の国家公務員についても解釈上同様の扱いとなっていたため、同条約を批准するためには法改正をする必要があった。

昭和32年、ILO総会で、日本政府代表は同条約を批准する可能性について検討する旨を表明し、日本政府は、同年9月労働大臣の諮問機関である労働問題懇談会に同条約の批准の可否について諮問したところ、同懇談会から、ILO第87号条約は批准すべきであり、そのため公共企業体等労働関係法第4条第3項等を廃止する必要があることなどを内容とする答申を受けたため、昭和35年4月には、ILO第87号条約の批准承認案及び国家公務員法等関係法律の改正案を国会に提出することとなった。

このILO条約の批准に必要な改正は、上記のとおり組合員・役員の資格の制限を撤廃するものであったが、国家公務員法改正案の中には、ILO条約とは関係のない人事院の組織に関する改正が含まれていた。すなわち、総理府の内局として人事局を設置し、人事院の事務を大幅に人事局に移管することを内容とする改正が含まれていたため、便乗改悪であるとの指摘も受けることとなった。この改正案は国会で審議されることなく、条約批准案件とともに廃案となった。その後、昭和38年12月までの間に、合わせて6度国会に提案されたが、いずれも審議未了廃案となった。その間、佐藤人事院総裁から総理府総務長官あてに、ILO第87号条約と関係ない部分についてまで国家公務員法を改正することはにわかに賛成しがたいとの書簡を送付したほか、国会の場においても佐藤総裁より、今度の改正によって人事行政の機構が大幅に後退して明治憲法時代に近いものになってしまうとの危惧が表明された。

これと並行して、労働組合からILOへの提訴が重ねられ、昭和38年になると、ILO結社の自由委員会はついに結社の自由実情調査調停委員会に事件を付託することとなった。国内においては、昭和38年6月に、衆参両院に国際労働条約第87号等特別委員会が設置され、法案の審議が軌道に乗ったが、法案の成立には至らなかった。このような情勢の中、政府は問題の早期解決を決意し、新しい改正案をまとめて昭和40年1月に国会に提出した。この中で、下記(2)のとおり若干の事務を人事院から内閣総理大臣に移管する以外、人事院の事務は従前どおりとすることとされた。

しかし、この改正案でも、職員団体制度等について与野党間で折り合いがつかず、一時は審議が空転したが、職員団体制度関係規定については、新設する公務員制度審議会で審議し、その答申が提出されるまで施行しないこととする船田衆議院議長からのあっせん案により、与野党の話し合いがまとまり、国家公務員法の改正案は可決成立した。

(2) 人事院の機能の整理

昭和40年の国家公務員法の改正においては、中央人事行政機関に関する改正が行われた。その内容は次のとおりである。

上記の事務について内閣総理大臣を補佐する総理府総務長官は国務大臣をもって充て、その事務を担当する部局として、総理府に人事局を設置する。

この改正により、人事院の機能は、中立・公正性の確保機能及び労働基本権の代償機能に整理されることとなった。

なお、同改正法は、このほか、職員団体の定義を設け、その目的、性格を明確にし、職員団体の役員の資格、職員団体の登録、交渉についての手続や要件等について定めるとともに、在籍専従制度の許可期間について制限(当初3年)を設けるなどの内容を含んでいた。


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