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第1編 《人事行政》

【第2部】 人事院の創立、変遷と国家公務員人事管理における現代的課題

参考資料

資料3 自由任用制度と官庁事務都合による休職


1 自由任用制度のあらまし

明治維新以後は、まず、明治維新を推進した薩長土肥を中心とした藩の出身者が官の中枢を占め、藩閥勢力による自由任用が行われてきた。その後、明治18年12月の内閣制度の創設に伴い、官吏の任用は試験制度によるべきとの大綱が示され、明治20年に「文官試験試補及見習規則」(明治20年勅令第37号)が制定され、奏任官、判任官の任用のための高等試験と普通試験の2種が設けられた。さらに、文官任用令(明治26年勅令第183号)が定められ、奏任官の任用は、文官高等試験合格者や一定の経歴を有する在職者から行うこと、判任官の任用は、文官普通試験、文官高等試験の合格者や一定の経歴を有する在職者、官公立中学校等の卒業者から行うことなどが定められた。

一方、勅任官はこうした資格を必要とする旨の規定がなかったので自由に任用できるという「自由任用」制が採用されていた。明治31年にわが国最初の政党内閣(憲政党)である第一次大隈内閣が誕生したが、同内閣は藩閥政治への対抗上、行政機構への政党勢力の拡大を意図して政党員を勅任官である各省次官、局長、知事等に大量に任用した。政党員の猟官運動も激しく、その改革を望む声は高まった。

4ヶ月あまりでこの第一次大隈内閣が瓦解した後、再び、藩閥を代表する山縣内閣が登場し、猟官の弊への反省そして政党勢力の伸張を抑える目的から、文官任用令が改正され(明治32年勅令第61号)、自由任用とされていた勅任官(親任官を除く)について資格要件が定められることとなり、勅任官は3等の奏任官に在職した者又は勅任官在職1年以上の者等に限ることとされるなど、自由任用の範囲が縮小されるとともに(この改正の直接的な理由としては、奏任官の資格のない者を直ちに勅任官に任用するのは官紀荒廃の原因であること、また、法令が既に詳細になっており行政は専門技術の域に達しているから自由任用を排して専門の学識のある者を任用する必要があること等が挙げられている)、文官懲戒令(明治32年勅令第63号)、文官分限令(明治32年勅令第62号)を制定して、官吏についての成績主義の原則や身分保障が整備されることとなった。なお、併せて、文官任用令等の改正が枢密院の諮詢事項とされ、以後、時の内閣と枢密院が文官任用令等の改正を巡って鋭く対立することが起こった。さらに、明治33年には、官制通則の改正が行われ、各省の次官は廃止され、その機能は事務を総括する総務長官と政務を補佐する官房長に分割されるとともに、自由任用とされる官は内閣書記官長、各省の官房長、秘書官のみとなった(明治36年には総務長官がなくなり、次官が復活した)。

その後、政党勢力が伸張し、大正2年に文官任用令が改正され勅任官等への任用資格が緩和されるとともに、大正2年の勅令第262号により自由任用の官は内閣書記官長、秘書官のみならず、法制局長官、各省の次官、警視総監、内務省警保局長、勅任参事官などとなったが、山本内閣はシーメンス事件により総辞職に追い込まれ、大正3年には、第二次大隈内閣が誕生した。この内閣では、大正2年の勅令第262号を改正し、自由任用となっていた各省次官、警視総監、内務省警保局長、勅任参事官等を自由任用の対象から除外した。

しかし、大正7年に政友会の総裁である原敬が内閣総理大臣に就任すると、勅任官の任用に関する改革に取り組み、大正9年には、大正2年の勅令第262号を改正し、各省次官、警視総監、内務省警保局長、勅任参事官等を自由任用とするとともに、文官任用令を改正し試験任用の緩和を図る(例えば文官高等試験に合格していなくても、勅任参事官や高等官3等である秘書官等であれば2年で、銓衡によって勅任官に任用できることとした)こと等の措置を講ずることにした。

さらに、大正13年には、大正2年の勅令第262号の改正により、各省次官及び勅任参事官を自由任用の官から削除し、各省に自由任用の官として政務次官、参与官を置くこととした。

昭和7年の5.15事件により犬養首相が殺害され、政党政治が終焉すると、昭和9年には大正2年の勅令第262号が改正され、警視総監、内務省警保局長などを自由任用の官から外すなど自由任用の範囲が縮小され、自由任用の官として残ったのは、内閣書記官長、法制局長官、各省政務次官、各省参与官、秘書官のみとなった。さらに、昭和16年1月には、文官任用令が改正され、勅任文官について、広く、銓衡委員会の銓衡により民間人の起用等を図ることができるようになるなど戦時体制が整備された。なお、政党内閣等における主な自由任用の官の変遷は表のとおりである。

[表] 政党内閣における主な自由任用の官の変遷
2 分限−官庁事務都合による休職

明治32年に文官任用令が改正されるとともに、文官分限令及び文官懲戒令が制定され、官吏に強固な身分保障が与えられたものの、文官分限令には「官庁事務ノ都合ニ依リ必要ナルトキ」には、官吏を休職処分にすることができる(休職期間は当初3年間とされたが、明治36年には高等官は2年間、判任官は1年間に短縮された。休職期間中は俸給の3分の1を支給することとされた)とされ、この休職期間の満了により官吏は当然に退官することとされていた。もともとは官庁の新陳代謝を促進するために設けられた規定であるが、政党内閣の進展とともに、この文官分限令の休職条項を活用して、自らの意にそぐわない官吏を「官庁事務ノ都合ニ依リ」休職とし、休職期間の満了とともに自動的に退職とさせることが行われたとされる。このように、官吏の地位は不安定なものとなり、政権の交代に伴って、官吏の職、地位にも影響が及ぶという状態で、猟官の風潮が蔓延したとされる。

その後、昭和7年に、5.15事件による犬養首相殺害の後を受けた齋藤内閣の際に、文官分限令が改正され、官吏に休職を命じる場合には、高等官については文官高等分限委員会(内閣総理大臣を会長とし、大審院長、会計検査院長、行政裁判所長官等8人で構成)の諮問を経ることを要し、判任官については、文官普通分限委員会の諮問を経ることを要することとされ、従来の政党政治のときのように当局側の自由裁量により官吏を退職させることはできなくなったとされる。これにより、官庁都合により休職される者は大きく減少した。

なお、昭和16年1月の制度改正により、戦時体制に即応する適材適所の人材登用などを目的とした改正が行われ、これらの分限委員会は廃止された。

3 自由任用、官庁事務都合による休職の実態

明治31年の第一次大隈内閣においては、勅任官が自由任用されたこともあり、政党員が各省次官等になったが、明治32年に文官任用令が改正され、各省次官等の勅任官にも資格が必要とされるに至り、政党員は資格がなければ各省次官等に就くことができなくなった。

大正2年の勅令第262号により、自由任用の官が各省の次官、警視総監、内務省警保局長等に拡大されたが、大正3年の勅令改正により、再び自由任官の範囲が縮小され、各省次官、警視総監、内務省警保局長には資格が必要とされることとなった。実際の運用を見てみると、こうした改正にもかかわらず、各省次官等の職に就いていたのは資格を有している官僚であった。しかし、政と官の結び付きは強くなり、内閣が交代すると、各省次官等のうちには辞職する者や休職にふされる者もおり、再び内閣が交代すると再度、次官に就任する者も出てきた。なお、官僚の中には、政党に入党する者も現れ、さらに現職のまま衆議院選挙に立候補し、当選する者も出てきた。

特に、知事等の地方官の任用については、党利党略で行われることが多かったとされる。例えば、原敬内務大臣の時には、政友会の党勢拡張のため、知事等について大異動が行われたとされ、政友会のために働いたいわゆる「政友知事」の中には、政友会の地盤培養のために、露骨に党利党略で事業執行を行う者もいたとされる。さらに、昭和2年の田中内閣においては、総選挙準備のため大規模な地方官の異動を断行し、組閣から半年で、多くの知事等を更迭し、その後任に自党に有利な官僚を任用したとされ、その後の内閣である浜口内閣においては、逆に、10数名の知事が復帰し、現職の多くの知事が更迭された。


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