シンポジウム 第2部 質疑応答等
(全員登壇)
(林)
先生方から、補足なり、信頼の回復のために行政、政治、メディアなど各々のプレイヤーに何を期待するかについてコメントを。
(森田)
2点お話したい。一つは、日本行政機構の問題として縦割りと申し上げたが、組織は分業しないとやっていけないという意味では当たり前である。所管を決める以上は、縄張り争いも普遍的なこと。日本の縦割りの問題は、環境変化に応じて組織の組み替えが簡単に行われず、そのため、ずっと同じ形で組織が続いているところから生じる。それと表裏一体で、結びついているのが人事システムである。採用試験は人事院がやるが、そのあとは、「入省から墓場まで」と言われるほど、省が人事の面倒を見る。これが問題視されている。したがって、改革は省庁の壁を破る形で、人事制度も省庁の壁を破る形で行われるべきだというのはその辺からきている。
もうひとつ縦割り行政の問題は、環境変化に対応できないところ。各省の隙間に新しい課題が出てきたときに、その対応に苦慮している。情報通信の分野で経産省ではITと言い総務省ではICTと言うとか、幼稚園と保育園の一元化が議論されて最後には三元化となったとか、その類の話がいっぱいある。これはなんとかならないか。今は官邸に持ち上げて、総理も覚えられないほど多くの有識者会議を作って、その関係の調整に苦慮しているというのが現実。
2番目は社会保険庁。「そんなにダメな組織ならやめたら」と言いたくなるが、やめるわけにはいかない。やめたら年金はどうなるのか。だが叩いているだけでは、そこで一生懸命働こうという人は育たないのではないか。「どのような形で機能を維持するかの議論が必要」と言うと、メディアの方も「言われてみればそうですね」と言うのだが、冒頭でも言ったように、それ自体が空気に水を差し、空気を強化するような状況になっている。ここで、それでも勇気を持って水を差すのが必要ではないかと思っている。この辺については、メディアのあり方も含めて重要な論点ではないかと思っている。
(橋爪)
補足的に2つ申し上げると、信頼が行政府に対して失われているというのが今日の前提だったが、まだ批判が生ぬるい状態だと思う。もっと極端な批判というか憎悪になることもあり得て、アメリカはそれが一つの基調になっている。リバタリアニズムでは、「連邦政府はない方がよい」、「あってもいいけれど、できるだけ小さな形にするように」とされている。こういう原理主義者がいて、一定の政治的影響力を持っている。日本にはそういう人たちがまだいない。だから信頼を失われてどうしようというレベルの話となっている。
リバタリアニズム的に考えてみると、やはり行政府は多すぎる。人員や組織や権限が大きすぎると思う。詳しい人に「なぜそんなに忙しいのか」と聞くと「調整が大変」という。「どんなものでも複数の省庁、部署に関係するわけだから十分根回しをしないと何もできない。そこに時間がかかる」と言う。明治の頃の単純な組織であれば、あっという間に調整できたのではないか。いわゆる自縄自縛になっているわけで、もう限界である。何か手を打たなければという時期ではないか。
2つ目の問題は、憲法が大事と言ったことへのフォローだが、当たり前じゃないかと思うかもしれないが、そこでは順番が大事で、憲法が大事なら法律は憲法に比べれば大事でない、通達は法律より大事でないということ。通達に比べて規則だとかなんだとか、その各所管の部署でいろいろあることはさらに大事じゃない。しばしば憲法に照らして問題のある法律がある。法律に照らして問題のある通達や法令、規則がある。そういうのは大学にいてさえ、ばかばかしい規則があるが、現場の皆さんはどうしても目の前の規則というものに縛られるし、戦っていかなければならない。それを動かさなければ実際には1ミリも動かないのは確かではあるが、公務員の原点というのは国民との関係にあると思う。国民との関係に立脚して行動する。それが一番申し上げたかったこと。例えば、憲法の原則からみて非常に歪んでいると思うのは、日本の法律のほとんどが議員立法ではなく政府提案である。大体議員が立法するのが当たり前なのに、議員立法という言葉があること自身が相当おかしい。そして現実に法律を行政官の皆さんが作っている。ここが三権分立の原則から言うと非常におかしい。本来ならばみなさんの仕事は大部分、議会の仕事である。だから半分くらい霞が関から永田町に引っ越して議会のスタッフになるというのが、民主主義の本来の姿ではないのか。
(郷原)
さきほど私の方からは不特定不明確な情報を出して問題になったという話をし、竹村さんから適切な情報開示がむしろreputationを高めるという話があった。どこにその違いが出てくるのか。圧倒的に情報量が不足しており、多くの人が誤った理解をしやすいという状況では、正確な情報を出すべきなのは間違いない。しかし、私の示した事例では、既に情報を持って多くの人は信頼しており、そこに情報を出すことがほとんど意味がない、むしろ逆に混乱し大きなダメージになってしまう状況であるというのが、2つの比較から言えるのではないかと思う。
今日も、「どういうときに情報を出すべきか、また、法的に公開が義務付けられているときに出すべきか、法的な義務がないときにどうしたらいいか」という質問があるが、これは企業のコンプライアンス・マネジメントでは最も重要な判断である。一言でこうすべきだと言えるようなものではない。そして、その情報を出す理由によって、情報の公表の仕方、出し方、タイミングが違う。例えば典型的なのは、情報を出さないと被害が発生する場合は、当然一刻も早く多くの人に向かって出すことが求められ、それに尽きる。ところが、世の中多くの場面で求められている公表はそうではなくて、企業との関係でいえば「消費者に誤った情報を提供したので、そのままにしておくと選択権を損なうから」とか、「企業の信頼性にかかわるような情報は早く出しておかないと後で隠したと言われるから」というような、つまり信頼を確保するという目的で情報を出すのであって、そうだとすると、タイミングにしてもやり方にしても、信頼回復に最も適した出し方でなければならない。その出し方というのは、それぞれの事例に則して考えないといけない。
私は法的な義務があるときに情報を出すことにこだわっているわけではない。法的な義務というのは最終的な責任の配分の段階では決定的な要素になる。しかし、後でちょっとでも自分が責任を負わされる可能性があるからという理由で早い段階からすべての情報を出そうとすると、そのこと自体が大きな不信を招いてしまうということになりかねないから、バランスのとれた判断をしなければならない。
さきほど、社会保険庁について触れられたが、すくなくとも年金改ざん問題については社会保険庁に対して向けられた非難はほとんど根拠がないものである。問題の根本は大臣の人気取りパフォーマンスにある。世の中で多くのことが大変誤解されている。まったく実態と違うことが前提となって議論されていることがよくある。それを改めて誤解を解く努力が必要である。
(竹村)
マスコミとの関係だが、「国民との関係に立脚した行政」と言った瞬間に、難しい問題が発生すると思う。霞が関の皆さん方は、直接国民と接することはまずなく、マスコミを通じて国民と会話しなければならない状況にある。マスメディアと行政の徹底的な違いは、マスメディアは事件が起きないと動かない人生。君たちは事件を起きないようにしないといけない人生。事前に事件が起きないように手を打つのが君たちの日々のbehaviorである。この、まったく生き方の違う人間に会話をして国民に伝えなければならないという、難しいサーカスのようなことをしなくてはいけない。一言では言えないが、互いに異なる人生を歩んでいるということを常識として知っておいておつきあいしないといけない。
もう一つは情報公開の話。私は、技術情報はすべて出すべきであるという立場である。生データを棄却検定する前に、ミスがあるかもしれないものも含めて出す。ミスがあれば精査して直す。私は、行政に対する信頼のインフラはそこにしかないと思う。各省で技術情報がないというところもあろうが、実は目一杯あるはずだ。それをきみたちは隠し続けている。絶対出していない。そこに根本的な不信感がある。
(林)
質問票への答えを森田先生からお願いします。
(森田)
まず「民主的統制と専門性・中立性がバランスよく共存するためには行政はどのような行動をとったらよいか」について。政策ということを考えたとき、唯一絶対なものが出てくるものでなく、最後は選択の価値判断がある。そこまで行政がやるかは難しいところ。もう一つ重要なことは何かというと、政策である以上、世の中を動かす仕組みとして論理的に完結したものでなければならない。よくマニフェストで財源の話があるが、そこが完結しないと、問題は先送りとなる。実際問題、現在の複雑な世の中で完結した形で政策の案を出すことは簡単ではないし、それほど多く出てくる訳ではない。例えば福祉の負担と受益の関係でいえば、低負担高福祉は論理的には難しい。今の質問では、行政がするべきことは、きちんとした選択肢をどう作っていくか。政治の方からはいろいろなプレッシャーがかかってくるが、それに対して言葉でごまかして先送りすべきでないし、逆にこれしかないというのもよほどのことがないとあり得ないのではないか。エビデンスに基づいた政策が必要。例えば医者が足らないと言って医学生を増やせばいいというのは、時間的に間に合わない選択肢でしかない。こういうことをきちんとすることが大事ではないか。
「政権交代が起きると施策の大転換が行われ、信頼を失うことにつながらないか」について。トレードオフなのでマイナスになることがあるかもしれない。逆にいうと民意を離れた政権を変えるために政権交代をするのだから、連続性を維持する方がおかしい。ただくるくる変わっていいのかという問題はある。ここは変えちゃいけないというものはある。ここは変えるべきでない、あるいは変えるべきだということを見極めるのに、国民が、政党が、学習する期間が必要である。この期間は分からないが、経験を経験として蓄積することが重要だと思う。
「マスコミに公表すべき情報の基準と公表の仕方」について。メディアは事件に飛びつく。しかし、当然のことながらプラスに反応する内容もある。積極的にそういう情報をどう発信するかというのが必要。東京大学でも、不祥事で謝るときもあるが、他方今まで治らなかった病気が治るとか、色々ある情報を積極的にアピールするのが必要である。関連して、「世論」とか、「国民の意見、意識」とか、「消費者の意識」というものは、これは生では分からない。マスコミが介在するなど、誰かが解釈して「これが国民の意思だ」としているので、他にも意見はあるのかもしれない。それを、日本ではどの新聞社も同じことを言っている。「世論」とはどういうものなのか、違う「世論」はどこに見つかるのかという観点で見ていく。アメリカのウォルター・リップマンの「世論」(岩波文庫)という本があるが、それを読み直す価値があるのでは。
それから、「行政の内部統制は難しいのではないか」という質問について。そういう意識を持っている限りは難しいと思う。むしろどんどん内発的に、上司の意識を国民の意識を変えていくのだという姿勢を持たないと無理。
(橋爪)
「政権交代で施策の継続性が損なわれ、信頼性も損なわれるのでは」という質問について。政権が交代しても継続しなければならないことはある。軍事・外交・情報は政権と無関係であるべきである。政権交代の影響が出ないようにしなければならない。その他の領域では、政権が交代されれば、政策が変更されるべきものである。そのために政権交代される。新しい施策が打ち出されたらそれに公務員は従うのが正しい。副作用としてころころ変わるというのがあろうが、それは行政の問題でなく、政治の問題。政策の継続性を確保したければ、与野党が協議して変えないことを決めていくのが必要。
次に「公共サービスの信頼性の維持とコスト削減の両立が難しいときの政策の決め方」について。我が国は大変おかしい状況。財政均衡が原則であり、つりあわない場合には、サービスを下げて人員を減らすあるいは、増税するしかない。ところが今国債を乱発しどちらも選ばないことを国民が許容しているというのは国民の統治能力に問題がある。いずれサービスの低下、あるいは増税、もしくは両方を選択するようになる。
「国民に負担意識が醸成されるまでにかかる時間」について。年金、消費税の増税の問題がテーブルに上るとき。5年以内ではないか。
「行政の内部統制は難しいのではないか」について。統制する役割は一義的には議会にあり、委員会審議は各省庁の行政を監督するというのが役目で国政調査権をもっている。日頃からヒアリングをしていつも行政情報を持つという体制が必要。さっき言ったことと関連するが、スタッフが今非常に不足しているので、これがあれば行政は内部統制に神経を使っていくようになると思う。
(郷原)
「行政の内部統制は難しいのではないか」について。企業社会で一番大きなのは、金商法(金融商品取引法)の内部統制。これは、特にコーポレートガバナンスがしっかりしていることを前提にして、経営者がリスクを判断するもので、上から下に対して情報を認識し、それを市場に開示していくという、いわばトップダウンの考え方。これは今までのボトムアップ型の行政とは違った発想ではないか。行政でも内部統制的な考え方が必要となっているが、企業で起きている内部統制の副作用についても、適切に認識すべきではないか。現場で起こっていることを把握することが目的なのに、それを忘れてひとたび自己目的化してしまうと、内部統制のために何をすべきかという形ばかりに目が向いていてしまう。規則・マニュアルに書いていることを何パーセント達成したとか、そういうことばかりになってしまう。今起きている法令遵守の呪縛を一層強化してしまうのではないかと危惧している。このように行政における内部統制というのもある種危険な面もあるのではないか。
なお、行政と司法の関係について一つ追加したい。従来は司法は社会の周辺部分の問題解決に寄与してきたが、それが中心部分に移動してきたことで、いろんな問題が発生している。今まで中心部で問題を解決してきた行政の世界と、司法との関係を考える必要がある。今までは、特殊なことが起きたときだけ司法と接してきたが、これまでとは司法に対して違った発想をすべきだろう。問題提起だけしておきたい。
(竹村)
「内部統制」について。内部改革は極めて難しいが、やらざるを得ない。政権交代によっていやが応にも変わっていくとは思う。行政内部でどう変えるか。行政に入ってきた人は非常に素直な人である。ドロップアウトの経験がなく、社会に反していない人が組織を形成するので、組織へのロイヤリティは自然に強くなる。その先に国民がいるというイメージをどう持てるかである。もっとより良い教養を持って、偉くなってポジションに立たないと本当に改革はできない。課長補佐レベルでは「あいつは変わっている」と言われて終わってしまう。先輩たちの言うことをききながら、なおかつ、違うと思って、その先の国民を意識できるか、このバランスが非常に難しい。そういう意味では常に行政の中にいる素直な集団たちがもっとよりよい教養をもって組織に対するロイヤリティをもちながら、なおかつ、幅広いところをイメージする。そういうことをやっていって偉くなっていって、その組織がはじめて変わる。
(林)
「内部統制」について。金商法的な形の内部統制が直ちに適応できるかは別にして、ITシステムや業務システムで違法行為などが発見され、トップマネジメントがきちんと掌握しやすいようにシステムを作っておくというのは、信頼性の醸成ということからも大事である。リスクマネジメントということでいうと、国家安全保障、経済成長が危なくなるリスクなどについて、できるだけ定量的にまとめて、避けるためのコストはどれだけかを明らかにすべき。リスクを測って評価をして、その中でどのリスクを取り、避けるかという判断をする。そのリスクが発現したときに、どういう危機管理の体制をとっておくか。そして何かそれでも起こったときに、最終的にどう復旧し、活動再開するかというようなプロセスをあらかじめ作っておくというリスクマネジメントは、国の行政を進める上で必要なことである。
企業の場合のガバナンスは、株主と経営者という一直線の関係でシンプルに結ばれるが、国の場合にはそういうものではない。「どういう形で執行責任者を選ぶか」というガバナンスと、執行責任者がどういう形で内部統制するか。
内部からの改革について、各省で色々なカルチャーがある。私のときは「もしそのままでいいと思うなら来る必要はない。今の問題を変えようということに意味がある。そう思う人だけ来てほしい」と通産省にリクルートした。そういった意味で、官庁の責務に応じて、統制がきついところ、どちらかというと下克上的な方が望ましいとされるところなどカルチャーがあろうが、基本的には変えていこうということを忘れずにやっていくべき。
(林)
時間が若干ありますのでフロアから追加で質問があれば。
(質問)
メディアとの関係で、事件を作っていくものだとして付き合えとのお話だった。一方、情報を出すときには責任逃れでなく社会への視点を持てとのお話もあった。メディアに信頼を持てずに付き合うと、責任逃れに走ってしまうのではないか。
(竹村)
メディアの人が事件を起こすのでなく、事件が起きて活躍するのが彼ら。それを知った上でどうやって付き合うか。本当に勇気がいることだが、しかし、我々にはメディアしかない。それははっきりしている。そのメディアの人に都合のいいことばかり言ってもダメである。彼らの人間を見る目はすごい。「この人だと付き合える」という信頼関係をマスコミの人と作るしかない。かならず彼らと付き合わなければいけないので、日々の中で信頼感のあるやり方を、どう個々人が構築するか。そういう個人が組織に何人いるかで、組織の強さが表れてくる。
(郷原)
メディアといっても色々ある。新聞でも経済部と社会部は人種が違うと思った方がよい。民間は普段は経済部の人としか接しない。それが不祥事のときに出てくるのは社会部のメディア。官庁は両方いると思うのであまりその認識のずれはないと思うが、日頃から流したい情報を流してくれるメディアと、批判が大きくなったときに出てくるメディアがある。メディアも、官庁や大企業の批判をすることについて、訴訟もあるし、一社だけ動くバッシングではリスクがあるため、通常は抑制的。しかし、幾つかの不祥事が重なって、みんなが「あの組織はダメ」と判断して臨界点を越えると一気に燃えさかる。この臨界点を分かっていないとメディア対応で問題が起きる。社会保険庁、三菱がその例である。最初は常識的な対応で済んでいたものが、再発したときに状況が急に変わっているということになる。社会保険庁は三つそのようなことが重なって全く世の中から信頼されなくなった典型例である。メディアの背後には、そういう国民の意識があるというのを心得て対応を考えておくべき。
(林)
医療の関係で、フジテレビの黒岩氏が、メディアは何か悲鳴が上がったところで、そこに行って「味方です」というのが本能であると言っていた。医者が足りなくなって、振り返ってみると医局のコントロールを廃止したという事実があるのだが、それが問題なのかどうかを全体像の中で示してあげないとメディアは正しく動いてくれない。まず、「大変だ」と悲鳴を上げたところの立場で対応してしまう。最近では、審議会も公開され、NPO型の深く掘り下げるメディアも育ってきた。メディアのリテラシーを上げるには、大きな全体像を示すということと、細部でも隠さないというのが必要であろう。行政は、世界でどういうことが起きていて、その中で今回の事件がどういうことなのかというのを示すべき。
(質問)
今日の話は霞が関が政策を作るフロントランナーとして信頼をどう回復させるかという話が多かった。多様なアクターから政策提案を受けてはどうかという意見も増えている。こういう政策系シンクタンクやNPOなどの動きが、今後の政策立案にかける国民の信頼回復につながる可能性があるのではないかと考えるが、その実現可能性についてどう考えられるか。
(森田)
政策形成を霞が関以外で行うのは必要だろう。しかしそれに必要なだけの人材、資金を持っているところは少ない。海外では行われており、自分達で作った政策を販売もしている。しかしそういったところはまず中立的ではない。日本の場合は、唯一国立のシンクタンクが霞が関ということでこれまでやってきた。NPOはまだ伸びていない。方向性は提言できるだろうが、きちんとした事実まで具体化するのは難しいだろう。私は霞が関に匹敵する形で出来るのは、都道府県レベルで蓄積と能力があるところだと思う。しかし、これには霞が関と同じではという批判もあろう。
(橋爪)
大きな領域にまたがりロングトレンドなものについては、行政はその業務上やりにくい。各省には監督業界があり、監督官庁はその業界を育成するのが任務で、それは長期には衰退していく。新しいものを育てるというのは、行政官庁には不向きである。例えば、30年や50年というスパンで二酸化炭素の排出量が80%削減というのを考えるとき、通常の方法では無理である。再利用可能なエネルギーをどうするかなど根本的に考えることが多い。私がサーチしている限り、それを行政でまじめにやっているところは少ない。民間には一部あって、そういうところとの対話が成り立つのが大事だろう。
(郷原)
NPOの現状は森田さんと同じ認識である。企業のロビーイングがもっとあってもいいのではないか。そういうロビー活動とセットとなった透明な政治献金はあってよい。企業がCSR活動の一環として、自分達の精通している分野について政治的に貢献するべきである。それを企業自体が公開していくのは期待できるのではないかと思っている。
(竹村)
橋爪先生の指摘は非常に的確で、各省庁は育成すべき業界を持っているので難しい。どうやって隙間を埋めていくのか。NPOや民間企業の動きをどう行政が取り込んでいくか。個々によく見て、新しい行政の動きが出てこないといけない。NPOの活動については、私は結構大きな期待を持って見ている。
(林)
政策を作る材料である情報は、基本的には情報公開法で出てきた。ここが、1970年から情報公開法があるアメリカとは違う点である。2番目は、替わり得る政権がいま初めて出てこようとしていること。3番目に資金であるが、これは需要と供給があれば機能しうることだ。
時間も来たのでこの辺りで終わりとしたい。皆様ありがとうございました。(拍手)