第85回行政フォーラム「オバマ政権の対イスラーム政策とテロとの戦い」 要旨
「オバマ政権の対イスラーム政策とテロとの戦い」
一橋大学大学院社会学研究科教授 内藤正典
対中東政策や対テロ政策の重要性は相変わらず変わっていない。従来,見落とされてきたかことを,基本的なことも含め,イスラムがどういう宗教なのか,今後我が国としてどう付き合っていくべきかについて。
オバマのチェンジは実現するか?
オバマ大統領は,名前もムスリム名で,4月のトルコの演説で彼がムスリムの血筋だと自分で言って相手の懐に飛び込み,イスラム教徒から強い親近感を得た。しかし,彼はキリスト教徒であり,そのことはこれからの行動で背教者と呼ばれる危険も抱えている。
7月のカイロでの演説で,コーランを引用し,理由無き殺人は罪と発言して更に深く相手の懐に飛び込んだ。これは,イスラム過激派によるテロへの批判を意図したものだが,多くのイスラム教徒は,オバマは今後理由無き殺人に相当する武力行使を行わないと宣言したものだと解釈した。今後,オバマが米軍を増派する決定を下した後に,誤った攻撃等で村人が死傷することが起きると,過激派は背教者として非難し,対イスラム政策,対テロ対策で窮地に追い込まれる危険がある。
イスラムとはどんな宗教か
- コーランはルールブック
コーランは,キリスト教の聖書や仏教の仏典と異なり,1400年前に予言者ムハンマドが神憑りになって声に出して読めというお告げを聞いて,その後彼の口から迸しり出た言葉,すなわち神の言葉であると解釈される。初期の啓示はコーランの後半にあり,殆どルールブックである。 - 暴力的,男性優位ではない
イスラムの宗教が暴力的だといわれるが,体に罰を加える身体刑の種類は決まっており,姦通,飲酒,強盗,追いはぎ,姦通に関する偽証だけ。
身体刑は必ずしも重罪とは限らず,例えば殺人については同害報復を認めている。これも被害者が望まなければ金銭による弁済が可能とされる。
重婚も法の趣旨は戦災孤児の救済にあり,生活費,財産分与まで厳格に平等規定が求められる。未婚男性が多くなる重婚のような法は男性優位からの発想ではなく,欧米の従来からの解釈は間違っている。 - 食べ物の忌避
食べ物では,酒,豚肉,異教の神に捧げられた物,体内に血液が残った肉が忌避される。最後は病死した獣のことで合理的。豚のいる湿潤な地域でないアラビア半島で何故豚を忌避したかよく分からないが,交易を通じ豚という生き物が汚物を食べて生きていけるということを知っていて忌避しているという点はあろう。
コーランでは,酒にはいいところも,悪いところもあるが,悪いところの方が多いからやめろ,と書いてある。イスラム教徒は死後に来世があることを信じているが,自分が地獄に堕ちると考えている人はまずいない。コーランに出てくる天国には4本の川が流れていて,その一つが美酒の川であり,飲んでも頭が痛くならないと書いてある。イスラム教徒は,実はかなり融通無碍である。 - 神の絶対視
神は余りに絶対神であるが故に全てを見通しているとされ,コーランでも「遍く知悉したもう」と繰り返されている。イスラムの神は人格神であるが,教えに反したものに対しては激しい怒気を含んで対する面がある一方,フッとそれを和らげるという面も持っている。
イスラムとの付き合い方
- 物事に対する考え方
イスラム教徒は原因があって結果があることは分かるが,悪い結果が起きたときに必ずしも自分の責任という風にとらず「アッラーの御意志」が出てくる。これはイスラム教徒に普遍的に備わっている知恵である。「インシャラー」は”神の思し召しのままに”の意味で,アラブ人が約束を守らないときに使われる常套句だと言われるが,それだけでなく,こっちが約束を踏み倒したとしても悪意に取らないと言っているもの。我々も外交などでこちらからインシャラーを使うことは利用価値がある。 - 仕事のストレスで鬱病にはならない
イスラム教徒は家族の葛藤などで鬱病になるが,仕事のストレスが原因とならないのが特徴。うまくいかなかったら,それはアッラーが望まなかったとして悔いない。この思考メカニズムは決して侮れない。
西欧世界では,18世紀の後半,教会と国家とが切り離され,啓蒙主義の時代を通じて神が居場所を失っていく。そして科学と同じように人間あるいは人間社会の動きについて,原因と結果が成り立つと思い込むようになった。
我が国も明治以降,原因と結果について大変厳しい見方をするようになり,それが道徳を縛っている。失敗したら反省をして前進をせよ,というメカニズムが働く。逆にイスラム教徒ではそのメカニズムがあまり働かず,最後は神様頼みとなる。 - フェアネスと喜捨
ムハンマド自身が商人であり,商売やお金に関して否定的な観念は全くないが,フェアネスは非常に重視する。物事がうまくいって儲かった場合,自分の才覚で儲かったと思うなという自己規制が神の言葉として出てくる。この場合「ザカード」という喜捨をしなければならず,それにより弱者や貧困の救済が行われる。一種のセーフティネットが1400年前から構築されていた。 - イスラムの金融
利子を取ってはいけないという理由は,自分の与り知らぬところで金が増えると言うことは不健全だから。イスラム銀行が特別なことをやっているのではないが,何処に投資するかという透明性が預金者に分からないといけない。イスラム教徒は,リーマンショックを見て,利子を禁じたアッラーは偉いと思っている。現実にはやってはいけないと言われてもやる人はいた訳だが,ドバイでのように損害が出た。 - ジハード
イスラムが生まれた当初は,武力によって宣教をするのをジハードと見るのが一般的であったが,今の世界では,自ら信仰を正すための努力を指す。金融危機は,イスラム教徒にとっては大変いい試練で,やっぱりコーランの言った通りにしておけば良かったと悔やんでいるはず。我々日本人は柱になる骨を持っていないが,イスラム教徒はコーランがあるので,そこに戻ってくる。 - イスラムは法の体系
イスラムというのは内面的信仰というよりは,法の体系である。イランを中心とするシーア派の方は,内面的信仰の方を重視するが,9割方を占めているスンニ派にとっては法の体系というのが極めて重要な部分である。彼らの法の体系を知っていると,例えば「無理強いはいけないとコーランにあるのでは」と指摘するだけで,分かっていると気付くだけで対応が変わる。
原理原則の部分はコーランに出てくることで,これは絶対に動かない。運用段階になると,イスラム法上ふさわしくないことは幾らでもする。そのとき原理原則を知っていることは非常に重要で,我々にとってあるいは日本の外交にとって不利益だなと思ったら,そこはコーランに忠実に戻せばよい。 - 子供や女性は戦時捕虜にはとれない
2004年にイラクで日本人3人が拉致され連行された事件があった。人質に取られたうち一人は女性だったし,18歳の子もいた。イスラム法上は,女性や子供は戦時捕虜にはとれないので,そこを指摘すると解決は早かったはず。イスラムは複雑で分からないと思わないで,要点を理解しているとイスラム圏との付き合いで先を広げていくことができる。
イスラム教徒の暴力は,なぜ今日の世界のグローバルな問題となったか
- ブッシュもキリスト教徒,ビン・ラディンもイスラム教徒
キリスト教は教えの中に暴力はないが,過去それを政治の世界は守ったことはない。そういうものだと思わなければならない。ジョージ・ブッシュが平和主義でなくてもキリスト教徒である。論理的に同じことがビン・ラディンについても言える。テロ問題を考えるときに一番こんがらがる点。 - テロとの戦いでイスラム教徒を激怒させた
理由無き殺人はイスラム法上厳禁されている。それを行った場合,同害報復というのが認められる。ビン・ラディンとアルカイダが9.11を起こしたという確証があるなら,ビン・ラディンとアルカイダを殲滅することについて,イスラム教徒の側から暴力的な応答はないと断言できる。問題は,米国が初期の段階でテロとの戦いを間違えてしまったことにある。粗雑な攻撃により民間人,特に子供が犠牲になった姿がメディアを通じて世界中に広がったこと。日本では放送コードがあって映さないが,中東のメディアはお子さんのご遺体は映す。これに対しイスラム教徒は世界中で瞬時に激怒する。 - ガザ侵攻とパレスチナ問題
ガザ侵攻のとき,板の上に並べられたお子さんのご遺体が毎日映された。イスラム世界15億の人が毎日その映像を見ていた。これくらい危険なことはない。1月29日,ダボス会議でガザ問題のパネルが行われ,その最後でトルコのエルドラン首相がイスラエルのペレス大統領を非難する啖呵を切って席を立った。これはある意味テロを抑止する効果になった。
かつてはアラブが一丸となって4回にわたって戦争を起こしたが,現状ではアラブという括りでパレスチナ問題を見ることができない。日本では民間企業も含めアンマンを拠点にすることが多いが,情報は取れない。イスラム世界の情報は,何千年にもわたって繫がっているバザールの中における人脈から構築されてくるのは変わらないからだ。
アフガニスタン(パキスタン)の状況を,どう平和に導くか
- 関係国と深い関係を持つトルコ
イスラエルと国交を正常に持っているのは,エジプトを除くと中東地域の中ではトルコだけ。NATOの加盟国であり,イスラエル製の武器を購入している。だから,ダボス会議での出来事でも大使の召還さえしていない。
クルド人問題に関しても,クルド自治政府のパルザーニ議長と一定の協力関係を持っている。イスタンブールのバザールは情報の集積地でもある。
アフガニスタンやパキスタンとも関係が深い。パキスタンとトルコは同じ境遇から独立戦争を戦ったという経緯がある。アフガン北部のウズベク系住民の言語はトルコ語と非常に近いこと,地理的にもトルコからアフガニスタンに至るまでほぼスンニ派のイスラム教徒であるという紐帯は侮れない。 - 被害者を出していないトルコ軍
トルコは軍事作戦「不朽の自由」には不参加だが,トルコ軍に指揮権が移ったときは約1400人の兵員が,それ以外では800人が派遣され,治安維持,警戒活動,アフガン北部でのPRT(Provincial Reconstruction Team)という自国の軍隊が警護をしながら文民のインフラ再建等行う支援プロジェクトに従事している。いまだかつて一人も犠牲者は出ていない点に注目する必要がある。
トルコの支援でやったものについてはタリバンが恐れてこない。トルコ軍はイスラム過激派とは一番ソリが合わない最もセキュアな組織で,単純にトルコ人がイスラム教徒だからではない。むしろ,警戒活動に当たってサングラス着用を禁止するなど様々なノウハウがあるため。政治家もアフガンのイスラム勢力,部族勢力との間にかなり緊密な関係を持っているし,優秀な外交官が赴任している。 - 日本の貢献とトルコとの協力
今後,民生支援の部分で,PRTで各地域に行って学校をつくるインフラの整備をするとき,日本は被害を受けない国のノウハウはトルコから学ぶとよい。日本が日頃付き合っている国は,被害を受けている国ばかりなので,アメリカから学べと言われても被害を拡大してしまうのではという懸念の方が先に立つ。
アフガンなりパキスタンなりをどうかしないといけないときには,このトルコ及びトルコ系民族とのつながりは,活用できるのではないか。
テロを防ぐために
- 過激化したムスリムの「暴走」の様態をよく表しているFort Hoodでの事件
Fort Hoodでの銃乱射テロの犯行が正気で行われたか否かで政権へのダメージが異なる。元々正気だとするとテロリストを少佐に昇進させたのかとなるので,これは極めて危険。元々狂気であることも何故見抜けなかったかとなる。元々正常だったが,イラク,アフガン帰還兵のPSTD治療に当たり,敬虔なイスラム教徒がイスラムへの罵詈雑言を日常的に浴びたことで,犯人自身がPSTDになったのだろう。真相の解明は難しいだろうが,イスラム教徒の兵員をどう処遇するか,米国は非常に難しい問題に直面させられた。 - テロの脅威は原理主義思想が生むものでなく,ムスリムを激怒させる出来事の増加が問題
従来,欧米はテロリストになるのは,イスラム原理主義思想に引きつけられたからと解釈してきたが,そうではない。
昨日まで普通のイスラム教徒だったのが,突然,敬虔になることは幾らでもある。敬虔になるのはいいが,その後暴力に出るかどうかについて,それを抑止するメカニズムは組み込まれていない。お子さんのご遺体が並ぶシーンを目の当たりにして激発する。それが暴走してテロになる確率は非常に低いが,イスラム教徒は15億人もいるので相当な脅威である。 - 免疫療法が有効
テロを防ぐには,イスラム教徒を激怒させる女性,子ども,老人の殺害を初めとする事態を避ける免疫療法しかない。そこが避けられる限り暴力化しないし,免疫力がついてくる。テロ対策に関して,イスラム教徒自身に暴走を防がせるための智恵を持たせなければならない。我々もそういう積もりでイスラム教徒と向かい合わなければならない時代にきていると思う。
平成21年11月27日(金)講演