第86回行政フォーラム「脳科学の現在と未来」 要旨

「脳科学の現在と未来−認知脳科学を中心に−」

大阪大学大学院生命機能研究科教授 藤田一郎

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 認知脳科学というのを中心にして,脳科学の現状と少し将来について。

脳は階層的な構造を持つ

 生物の体は,器官・組織・細胞と色々なレベルの違う構造からなっているが,その中でも脳は階層の違いがたくさんある。

 中枢神経系は,脳と脊髄とそこから出る末梢神経からなっている。そして,脳の中にはたくさんの違う仕事をする場所があり,例えば,ものを見るために機能している場所は30以上あって,それらが連絡して視覚システムを作っている。
 その本体は脳の中の色々な領域を結ぶ神経結合で,各領域では様々な情報が固有の規則で扱われている。各領域で,どのように情報として統一されているかという表示の在り方をマップという。

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 マップはそこにある神経細胞の回路で作られ,これをネットワークという。そして回路は神経細胞(ニューロン)からできている。神経細胞は長い軸索と呼ばれる突起を持ち,他の細胞の樹状突起に接したところ(シナプス)で情報を送る。これらの細胞は分子からなっており,これだけでも7つの階層がある。

 これら脳の中の様々なレベルで起きている出来事,構造が,私たちの振る舞いや心の中の出来事を決めている。

認知脳科学とは?

 それぞれの階層で何が起きているかということを調べている様々な脳科学の分野がある。その老舗は生理学とか解剖学で,計算脳神経科学は1980年代,ニューロエソロジーは1985年頃,認知脳科学は1990年代に入って始まった。

 認知脳科学とは階層を全て扱って,その中で起きる出来事がどうやって私たちの心を作っているのか,行動を作っているのかを直接に問おうとするもの:
「知覚,認識,学習,記憶,運動制御,情報(感情),注意,意思決定,言語,意識など,心のできごとのしくみを,脳の構造と働きから説明することをめざす科学分野」

認知脳科学が成立した背景

1980年代に

  • 認知・記憶機能の幾つかの側面に関する概念や問題点の整理がされ,記憶の分類や霊長類の視覚系の概要が分かってきた。
  • 脳活動の非侵襲計測法が登場した。昔は生理学や解剖学の技術を修得し,長年修練を受けないと脳研究の世界に入れなかったのが様変わりし,多くの人が入ってきた。
  • 理論的に脳のことを考えるという動きが顕在化してきて,神経科学全体が真に学際的になった。
  • 遺伝子ターゲティング技術が生まれ,分子生物学も認知的側面の解析に貢献するようになった。

 

患者H.M.:記憶の分類

 少し具体的に,研究がどう進むのかを見ていく。


 記憶の分類ということで,H.M.さんという人に登場していただく。この人は1953年から脳科学者に有名で,一年ほど前に亡くなられ実名が公表された。彼は「てんかん」の発生を軽減するために,側頭葉の内側を右側も左側も前後8cmにわたって取り除いた。殆ど副作用はなかったが唯一,前向性健忘という新しい記憶を得ることができないという症状が出た。このことから,ものを覚えるために働く場所と,覚えたことをしまう場所は脳の中では別だということが分かった。

  • 技能は上達するが練習したことを覚えていない
     鏡の中の星形をなぞる練習を続けて行ったところ,日に日にうなくなぞれるようになるが,練習したことは覚えていない。このことから,記憶には明らかに2つ種類:言葉に出すことのできる意識的な記憶と,体は覚えているが言葉での表現は難しい手続記憶があることが分かった。
     
  • 宣言記憶を担う脳部位を決めるのに40年!
     H.M.さんは側頭葉内側の除去で宣言記憶が損なわれたが,その責任病巣を決めるのに実に40年かかった。同じ症状が出るようなことは人ではできないので,動物を使うわざるを得ないが,しゃべれない動物の宣言記憶とは何かというところから議論が始まるし,領域の線引きにももめた。

分かってきた視覚野の概要

 人は広げるとA4で2枚程の面積になる大脳皮質を持つ。我々は毎日多くの仕事をこなし様々なことを考えるのに頭を使っているように思いがちだが,驚くべきことに,実に脳の1/3〜1/4は目を開けて世界が見えるということだけに使わざるを得ない。見ると言うことは,脳の中で目の前の世界を1回作り直していることである。

  • 目に映るものと違うものが見える
     視覚の不思議なのところを少しだけ紹介する。Fraserという人が1世紀前に作った渦巻きのように見える図形がある。しかし,これをなぞっていくと同心円となっている。このような過ちが起きるのは,脳が見ているから。
     (シルエットを映写し)これは女性が片足で立って回転しているシルエットに過ぎないが,ずっと見ていると回っている方向と立ち足が変わる。これは2次元の情報から脳が3次元を構成するために起こる。
     
  • 脳の損傷が起こる場所で違う視覚障害
     一次視覚野と呼ばれている脳の一番後ろの尖ったところの辺りにある場所が損なわれると,世界に見えない部分が出る視野欠損と呼ばれる症状が出る。
    もう少し前が壊れると,世界はそのまま見えるが,見えたものが何であるかが分からない「視覚失認」という症状となる。
     さらに前の底の方にある紡錘状回という場所が損なわれると,顔の部品は見えても,誰の顔か分からない「相貌失認」という症状が出る。
     頭頂葉の後ろの辺りが壊れると,ものが何かも誰の顔かも分かるが,見えているものにうまく働きかけられない「運動失行」という症状が起きる。
     
  • 視覚に携わる脳は役割分担をしている
     脳の中はサルでも人でも,頭の一番後ろにある第一次視覚野から頭のてっぺんに行く経路(空間視経路)と,耳の方に近づいていく経路(物体視経路)と2つ分かれている。
     私たちはものが見えて何が何処にあるか分かったので,行動を決めて自分の手を動かして,ものを掴んでいると思いがちなのだが,そうではない。ものが何処にあって何であるというのが分かる脳の場所と,それに手をどれくらい伸ばしてどれくらい開いたら掴むことができるかを計算している場所は脳の別場所である。

 私たちは何でも自分で全て自分の自我のコントロールの元に決定していると思いがちだが,実はそうではない。これは脳科学的な意味合い以上に,私たち人間がどんなものであるかを考えるときに非常に示唆を持った脳科学上の発見になっている。

 ものを見るのは簡単ではないし,脳は物凄くたくさん費やさなければならないし,脳が壊れたときにはものが見えなくなるという単純なことではなく,すごく不思議なことが起きる。

脳の中で何が起きているか

 脳の中で何が起きているかについて,何万という研究者がいるように,一言で語れないので,例を1つ2つ紹介する。

  • 非侵襲脳機能イメージングの限界
     非侵襲脳機能イメージングは,すごく過大評価されていて,何でも分かるように言われるが,それはあたかも夜の地球を人工衛星やスペースシャトルから撮った写真と同じ。何かの行動をすると,どの領野で活動が起きて血がたくさん集まっているということは分かるが,行動を行うために脳がやらなければならない計算は何か,その計算を実現している神経回路はどうなっているのか,ということは一切分からない。
     
  • 米粒1つの体積の大脳皮質に含まれる神経細胞の数
     答え:一次視覚野では170万個,他の場所では100万個で,これは驚くべき数。
     
  • 神経細胞は電気パルスで情報を伝える
     神経細胞は電気信号で情報をやりとりしているが,その様子を細いガラス管や金属線を脳の中に入れることで,この神経細胞が発する電気信号をピックアップすることができる。30個程の電極とコンピュータでの解析で100〜1000個の神経細胞個々の活動を記録できる。
     
  • 形のアルファベット仮説
     側頭葉のTE野では昔から顔に反応する細胞があるということは分かっていた。そのことから,認識対象それぞれに対応するような細胞が準備されているとする「認識細胞仮説」と01のような単純なコードの組合せにより認識されるとする「分散細胞仮説」のいずれなのかが,何十年と問題となっていた。
     1992年に私がサルで行った実験で,結構複雑な構造に反応するコラム構造が相当数あることが判明した。そこで,これらの情報を伝える数百個の図形のアルファベットがあって,その組合せで世界を表現しているという仮説を提唱した。実験的にも理論的にも裏付ける結果が出ているが,まだ証明されたとまでは言えない。
     
  • 生きている動物の神経細胞が見えるようになる
     2光子レーザー顕微鏡で,生きている動物(ネズミ)の神経細胞を標識付けし,250ミクロンの立方体の中にある1000個以上の細胞を一度に見ることができる。電気パルスに伴い流れ込むカルシウムを検出することで,神経細胞の活動の様子をその並びと共にリアルタイムで見ることができる。私の研究室も含め,まだ世界で2グループしかサルでの計測には成功していないが,この分野の研究も新たな段階に踏み込もうとしている。
     
  • 神経細胞の間の結合がどうなっているか
     どの細胞とどの細胞が結合してある特定の回路を作っているのかを調べる有力な方法もつい最近までなかった。ノーベル化学賞を受賞された下村先生がオワンクラゲから発見されたGreen Flourecent Protein (GFP)を使って,特定の細胞や分子を標識することができるようになった。
     これを脳科学に適用すると,マウスの脳の海馬の中に眼鏡橋のように神経細胞が何億と集まっている場所があって,かなりの細胞を緑,青,黄,赤の異なる色の蛍光で染め分けることができ,脳の虹技術(brainbow)と呼ばれる。これを使って回路を明らかにするプロジェクトが,欧米で数百億円オーダーの研究費が投じられて進んでいる。
     
  • シナプスの構造が見えるようになった
     ある一つの神経細胞の形態を正確に知るためには,色素を入れて形を見るということを行う。この技術も難しいもので,私のオーストラリアの友人のガイ・エルストンさんという人が開発したもので,いま一緒に調べている。
     スパインと呼ばれる他の細胞から情報を受け取る構造が,樹状突起と呼ばれる枝に付いている様子が分かるようになった。スパインが付いている状況で,細胞がする計算の性質が決まるが,その状況の実測値が分かったことは大きな一歩。これを見るためには,地下1階から3階までに達する程大きな超高圧電子望遠鏡が必要で,4ミクロンの厚さに入っている樹状突起を可視化できる。
     
  • 定量的理論が階層を結ぶ
     早足であったが,上の階層から順に研究の例を話してきた。この階層間の出来事を全て詰めることは10年や100年の単位ではできず,それまでの間,それぞれの階層の間を理論で結ぶ研究が行われる。

ブレイン・マシン・インタフェース(BMI)

 医療応用の大きな分野が,ブレイン・マシン・インタフェースで,脳の損傷で失われた脳機能を機械で補おうという研究。2001年にサルの研究で行われたものが,2004年にはもうアメリカでは人に埋めた。
 いまでは電極を脳に埋めるのは余りにドラスティックだということで,脳波のようなものを脳の外側からとって,例えば脊髄損傷のような方が自分の手の代わりにロボットの手を動かすことができる。念じるとカーソルを動かすことができるので,四肢麻痺の方でも手紙をコンピュータで書いたり様々なことができるようになるだろう。

最後に

 脳には非常に深い階層があり,それぞれについて様々な研究がなされている。
大事なことは,どのレベルの研究が重要であると言うことではなくて,各レベルの研究がバランスよく進展しないと,脳科学はもしくはそれがひいては医療や光学応用や司法やマーケティング応用などに役立つようにはならないということである。

 時に非常に大げさに売り込むような動きもあるが,くれぐれも語られる成果が本当にどういう内容のものかということを理解して,応用に持って行かなければならない。脳ブームの中で正しくない情報が世の中に浸透している状況があり,脳科学者の一人として非常に危惧している。


平成21年12月11日(金)講演