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第1編 人事行政

第1部 政治任用〜主要諸国における実態〜

第1節 政治任用をめぐる動向

2 歴史的経緯


我が国近代的官吏制度の歴史を振り返ると、戦前の官吏の任用については、試験による資格任用制を原則としつつ、政党の消長に応じて上級官吏等の自由任用の範囲が拡大、縮小している。

(明治期)

明治維新後、政府官吏の任用は、まずは薩長を中心とする藩閥勢力が側近グループを自由任用(情実任用)する形で始まったが、明治18年(1885年)、帝国憲法公布に先立ち、それまでの太政官制に代わって内閣制度が創設された際、当時の立憲君主制ドイツを範とした官吏制度が整備された。そこでは官吏は「天皇の官吏」と位置付けられ、天皇との身分的距離に応じて勅任官(親任官とそれ以外)、奏任官、判任官の区別が設けられたが、同時に、官吏の任用は試験任用とする方針が示された。

この方針に基づき、明治20年、勅任官(各省大臣、次官、局長など)以外の官吏の任用は原則として試験によることとされ、翌年には第一回の公開競争試験が実施された。自由任用から試験任用制に移行した理由としては、当時の伊藤博文内閣が藩閥政権への批判をかわす必要があったこと、明治23年の議会開設を控え、良質の官吏を得ることで議会に対して行政の絶対性を確保する必要があったことが挙げられている。

明治31年、初の政党内閣として登場した第一次大隈内閣は、行政機構への政党勢力の拡張を目指し、自由任用たる勅任官の範囲を拡大するとともに、政党員を各省の次官、局長、地方長官等に大量任用する猟官を行った。これに対し、翌年成立したいわゆる超然内閣たる第二次山縣内閣は、政党勢力の伸張を押さえるため、勅任官(大臣などの親任官を除く)についても、任用資格を高等試験合格者か一年以上の勅任官経験者に限定し、資格任用制の徹底を図った。

一方、同時に、官吏の休職事由の一つとして「官庁事務の都合により必要なとき」が設けられ、休職期間満了後は当然退官することとなっていたため、当局が自由裁量で休職を命じ得るこの制度が、政党勢力による官吏の更迭に利用されることとなった。この慣行は、昭和7年(1932年)に、休職に際しては文官分限委員会への諮問が必要とされることとなるまでの長きにわたって続くこととなった。

(大正期・昭和前期)

大正2年(1913年)には自由任用の範囲を拡大する改正が行われ、翌年にいったん覆されたが、大正7年、原内閣は、立憲政友会の勢力拡張の観点から再び官吏の自由任用の範囲を拡大し、主なものとして、内閣書記官長、法制局長官、各省次官、内務省警保局長、警視総監、秘書官を自由任用できることとした。このうち、各省次官については大正13年に資格任用制に戻されたが、治安を担当する内務省警保局長、警視総監は引き続き自由任用とされ、政変ごとに内閣と進退を共にしたのみならず、選挙干渉など政治色の強い活動も目立ったとされる。また、内務省所管の官選知事や警察署長等の地方官についても猟官による任用が行われたとされている。

その後、時局の緊迫とともに政党内閣は崩壊し、昭和9年(1934年)の改正で自由任用の範囲は縮小され、内閣書記官長、法制局長官、各省政務次官、各省参与官及び秘書官のみが自由任用として残り、これが終戦まで続いた。

(第二次大戦後)

戦後、新憲法下で、公務員の位置付けは「天皇の官吏」から「国民全体の奉仕者」へと抜本的に転換されたが、新たに制定された国家公務員法の下でも、試験その他の能力の実証に基づくメリット・システムによる任用を基本とする職業公務員制度が引き継がれた。事務次官も国家公務員法の適用がある一般職とされ、職業公務員が就くことが通例となっている。

いわゆる55年体制の下では、政権交代がない状態が長く続いたことにより、職業公務員が果たすべき役割や、政治(政党内閣)と行政との関係の在り方等は特段大きな議論とはならなかった。また、欧米へのキャッチアップが明確な国家目標であったこともあり、事務の執行のみならず政策立案や調整についても広範に官僚に委ねられてきたことは否定できない。


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