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第1編 人事行政

特別寄稿 政治任用 〜専門家の目から見た展望と留意点〜

米国における政治任用の実態から学ぶこと:わが国における政治任用の展望を考える

3 わが国における政治任用の拡充に関する提案


以上の米国における政治任用制度の概観を経て、次に、わが国における政治・行政改革の鍵としての、わが国における政治任用制の拡充について考えてみたい。

まず、議論の前提として、政治と行政を取り巻く環境の変化を直視しなければならない。第一に、いわゆる右肩上がりの経済成長を当然の前提としたかつてのような政治と行政の運営は、もはや許されていない。だから、政界と官界と業界の鉄のトライアングルなどと呼ばれるような馴れ合いの中で潤沢な財源を鷹揚に分け合うような国家運営はもはや許されていない。第二に、東西冷戦構造を前提とした安全保障政策の踏襲は、もはや許されていない。だから、米国の核の傘の下に隠れて経済活動に専念していれば済む時代ではなくなってきている。このような状況の中で、今、わが国はあたかも複雑なパズルを解くが如くに、厳しい取捨選択をしながら政策を決定し執行していかなければならない。そういう意味で、いわゆるバブルが破裂し冷戦が終結した今日、わが国は、戦後初めて、政治と行政の力量が真に問われている。第三に、選挙制度改革と多党化と政界再編(流動化)と無党派層の拡大により、すでに期待されて久しい、二大政党による政権交代の可能性が具体的に見えて来た観がある。その結果、これまではかなりゆるやかに運用されてきたきらいのある行政の政治的中立性の確保の要請が厳格に追求される必要も出て来た。

そして、このような時代の要請に対して、行政府における政治任用の拡充は一つの有力な答になると思われる。

まず、選挙における公党の公約は、実は、主権者から国家権力を託された政党(与党)にとっては主権者に対する厳粛な「誓約」であり、政治家と与党はその任期中にその公約を全力をあげて実現しなければならないはずで、そのためにこそ政権を与えられていたはずである。ところが、わが国では、最近まで久しく、選挙公約とはまさに文字通り「選挙」の時だけの公約で、その約束が守られないことについて、これまで、有権者も政治家もマスコミもあまり気にしない風潮があった。しかし、そのような状況は実は有権者自身による民主主義の冒〓に他ならない。そして、前述のような厳しい環境の変化を背景として政策の質が問われる状況の中で、最近、ようやく、公約の重さが真剣に認識されるようになってきた。それが「マニフェスト」選挙の慣行の定着に現れている。

とはいえ、現実には、政権与党にとってさえ、公約の実現は大きな困難を伴うものである。それにはさまざまな原因が考えられる。

まず、マニフェストと言っても、未だに旧来型の無責任な「選挙の時だけ」公約の惰性から抜け切れていない政党人が、そのマニフェストの作成に当たって、つい、その実現の責任を強く自覚せずに、例えば「減税と福祉の拡充」といった、本来的に矛盾するが大衆受けのするスローガンを掲げる誘惑に抗し切れない一面があり、それだけ、マニフェスト自体が政策として未成熟になりかねない現実がある。また、逆に、マニフェストの作成に当たって、その実施の責任を自覚した政党人が、それだけに、さまざまな抵抗勢力の存在も意識して、意図的に、マニフェストを抽象的なスローガンのままにしてある部分もある。また、選挙公約というものは、一般に、政党が有権者に対して「今より良い」生活を約束するものである以上、本来的に、改革を掲げて現状を否定する傾向にある。

このように、本来的に矛盾を内包し、抽象的で、現状否定的な公約を掲げた政党が政権を獲得し、その内閣の一員が大臣として行政省庁の主としてやって来て、いざその公約を実現しようとしても、本来はその大臣の手足となるために存在している行政省庁といえども、決して、その大臣の思うように動くものではない。まず、矛盾に満ちてかつ抽象的な公約など、訓練された職業公務員にかかれば、どうにでも解釈できてしまう。また、公約の改革的(つまり現状否定的)な特色に対しては、役人は、業界と族議員と連携しながら、現状の正当性をいくらでも説明(正当化・抗弁)できる。それに、その時点では未だ法令が改廃されておらず予算も定まっている以上、役人は、法治主義と行政の一貫性という建前の下で、粛々と旧来の政策を執行し続け、既成事実を重ねていく。加えて、法令が一部改廃された場合を含めて、行政官には、管轄下の法令の解釈について裁量権が与えられており、その行使によって半ば合法的に政治に抵抗することもできる。実際に、行政官僚にとっては、せいぜい1年か2年で去っていく大臣よりも、事実として永遠の歴代事務次官のほうが、よほど怖い存在で、また、退職後の天下り先まで保障してくれる有り難い存在でもある。法律上は各省庁とは大臣のことであるが、霞が関の現実では各省庁の主は事務次官であり、役人は「国益」を掲げた大臣よりも「省益」を掲げた事務次官に忠誠を尽くすのが自然である。

このようにして、選挙公約はなかなか実現され難いものである。

そこを改革する試みの一つが、現在の、副大臣と大臣政務官の制度の導入であった。つまり、行政省庁という高度に訓練された職業公務員集団の上に、ある意味で行政の素人である(仮に元行政官僚であっても現在は政治という別世界に住んでいる)大臣がひとりで乗り込んで来たところで、そこで急に強いリーダーシップを発揮して大きな政策変更などできるものではないし、実際、できるものではなかった。むしろ、迎え撃つ官僚集団に「教育」され、逆に政治の世界に対して省益をきちんと主張してくれる大臣が「良い大臣」と言われ、有力な族議員(つまりその省庁と関連業界の応援団)になっていった。当時も、大臣を補佐する政務次官制度はあったが、それも、「盲腸」(つまり、なくてもよいもの)などと揶揄され、当選回数の少ない若手議員がいわば族議員への登竜門として特定の役所について学習に来るポストのように扱われていた。その点では、副大臣と大臣政務官制度の導入は、政治家としての大臣と副大臣と大臣政務官が、いわばチームを組んで行政省庁に乗り込み、行政に対する政治のイニシアティブを取り戻す試みではあった。しかし、その実際の運用が不十分で、この制度は当初の目的を達してはいない。つまり、各大臣は総理が政権としての公約を実現する目的から総理の責任において適材適所の人選をしているが、その各大臣を「チーム」を作って補佐するはずの副大臣・大臣政務官は、旧来の伝統どおり与党の幹事長が派閥の推薦に従って機械的にポストを配分している。その結果、大臣を中心に副大臣と大臣政務官といった政治家集団が一丸となって各行政省庁を支配する…といった状況は生まれていない。そして、各行政省庁において、事務次官を頂点とする職業公務員集団が主であるという伝統は未だ厳然と守られている。

もちろん、このような状況を、行政の政治的中立性や三権分立という概念を立てて正しいことだとする向きもある。しかし、それは正しくない。

わが国の政治制度は次のようになっている。つまり、まず最上位に主権者・国民(これは国家の主であると同時に受益者でもある。)の意思があり、それが国政選挙を通して政治家と政権を選択し、その際に付けられた条件が公約である。そして、政治家は、議会内多数派が政権を握り組閣し、公約を実現すべく、まず国会で法律を制定(及び改廃)し予算を決定し、それについての細目を政令として閣議で決定し、政策をそれぞれ所轄の省庁へ降ろして行く。そして、各省庁では、法律と予算と政令に従い、大臣の指揮の下、必要な省令、通達等を制定(及び改廃)した上で政策を執行する。その過程で、事務次官以下の職業公務員は、専門能力をもって政治家を補佐すべき立場にある。その際、行政官僚たちが政治の決定(つまり法律・予算等)に従うべきだとする原則が法治主義で、それに従うことは決して行政の政治的中立性に悖ることではない。行政の政治的中立性に違反する行為とは、典型的には選挙に介入することであり、厳格には、行政官僚による国会対策も問題である。

そして、現在のわが国における副大臣及び大臣政務官制度の機能不全を改善できるものが、政治任用制度であろう。つまり、まず、副大臣と大臣政務官の人選を各大臣に委ねたうえで、例えば、各省庁の各局に1名の審議官クラスの政治任用ポストを新設し、大臣官房に、政治任用ポストとしての、国会対策担当の審議官と広報担当の審議官のポストを新設する。そして、職業公務員には、本来的に政治の領域である、国会対策と広報活動は担当させないことにする。これだけで、求められて実現せずに久しい政治・行政改革は大きく前進するはずである。なぜならば、このようにして初めて、現実に、官僚制度を主権者・国民から国家権力を託された現政権の管理下に置くことができるからである。

その場合の政治任用者の条件は、何よりも、現政権の公約を納得して支持している者であることである。そして、その担当する政策分野に関する高い専門能力があることも不可欠である。任期は職業公務員の終身雇用と異なり、政権(大臣)とともに来てともに去る短期任用に限定すべきであろう。仮にこの機会に職業公務員に転職する可能性を与えた場合には、いつの間にかその政治任用者が職業公務員集団に取り込まれ、国益の代弁者から省益の代弁者に変質してしまう危険がある。しかし、同時に、短期任用でいわば身分の保障がないことは弱点になり、それが任務の遂行に悪影響を及ぼしても困るので、法制度として、前職への復職の仕組みやそれに代わる高額の金銭的保障などを整備しておかなければならないであろう。

そして、そのような政治任用になる審議官が、省益ならぬ国益の代言人として、行政省庁の各局に常駐し、政策の具体化と執行の過程で職業公務員をいわば監視しつつ彼らと協力して、公約の実現を目指すことになる。その際、世論対策である広報と議会対策は、本来的に政治の分野に属するので、それは職業公務員としての行政官僚たちには立ち入らせず、あくまでも、大臣とともに政治的責任を負う運命にある政治任用者の専権事項とすべきであろう。そういう意味では、関連する業界への対応も、これまでは族議員と行政官僚が共同して部分利益を守ってきた分野であるので、あえて、国益の代言人である政治任用になる公務員の専権とすべきであろう。さらに、同様の理由で、労働組合への対応や自治体との交渉や自省庁内部での調整も、政治任用者が担当するに相応しい分野である。

ところで、米国における実態調査の過程でも、さまざまに、政治任用者の登用が職業公務員という立場を魅力のないものにしないかという懸念が示されていたが、今回ここで提案している程度の数の任用では、決して、職業公務員という立場を魅力のないものにはしないであろうし、伝統的な官僚制度の存続に害をなすはずもない。むしろ、この提案は、わが国における民主政治の機能・効率を高め、政治の責任を明確にするとともに、憲法が定める三権分立構造と議員内閣制の下で、政治と行政の境界線をはっきりさせると同時に両者の連絡を良くするものである。加えて、これは内閣のイニシアティブを高めることにより、行政府内部に牢固として存在するいわゆる縦割り行政の旧弊を壊すこともできるものであろう。

もっとも、いかなる制度にも必ず例外は必要で、例えば、外交や防衛や治安・公安といった分野では情報の管理が極めて重要であるが、この分野に、職業公務員としての訓練と経験を有さない者が政治的に任用されて高官として短期間で入ったり出たりしたのでは、国家の存続にかかわる機密漏洩の危険が生じかねない。従って、このような分野は政治任用者が立ち入れない領域とすべきであろう。

また、当然のことながら、政治任用者の専管領域に職業公務員が介入すべきでないと同時に、政治の側も、高度に訓練されたプロフェッショナルとしての職業公務員の世界に過剰に介入すべきではない。そういう意味で、政治任用制度を拡充する際には、同時に、職業公務員の人事(象徴的には事務次官人事)を政治から独立させて自律させる必要がある。加えて、職業公務員の中立性を確実なものにするために、職業公務員の再就職規制と退職後の十分な生活保障を制度として強化する必要もあろう。

なお、こうして、代議制民主主義の過程における政治と行政の役割分担を明確にする努力をしていくと、現在の政治と行政において多用されている「審議会」や「懇談会」の存在にも疑問が向けられることになる。この審議会等は、政策決定過程に登場し、その構成員の社会的権威性により政策が決まり、手続が動いて行くように見える。しかし、本来、国策は、政党による問題提起、それに対する民意の反応、官僚による専門的補佐…を経て、政治の責任において決定され、行政により執行され、そしてまた民意の評価を受ける…という循環の中で生々発展していくべきものであろう。そういう意味で、政治の責任と行政の専門性を曖昧にしてしまう「隠れ蓑」などとも呼ばれている審議会を政治・行政過程で活用する慣行は改められるべきであろう。そうして、政治の責任と行政の専門性を前面に出しためりはりのある代議制民主政治が展開されることを望みたい。

最後に、米国実態調査の際に耳にした次の言葉を記して、結びとしたい。

「政治任用者も職業公務員も、ともに、優れた人々と一緒に重要な任務を達成する…そういう仕事に喜びと満足を感じているのだ。」


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