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第1編 人事行政

第1部 人事行政この1年の主な動きと今後の課題

三岡八郎という人物


元・大蔵事務次官

尾崎 護

国家公務員は長くて3〜4年、短ければ1年で次々とポストを移る。新しいポストについて3ヶ月もすればもう立派な戦力になるような適応性が常時求められている。

しかし、わずか1年3ヶ月の間に「国家運営のマニフェストを作り、内乱鎮圧の戦費を調達し、貨幣制度を改革し、公務員給与制度を策定し、さらに新制度にクレームをつけてくる外圧に対抗せよ」と命じられたら、さすがの公務員諸氏もちょっとびびることだろう。ところが、幕末維新という時代には、そんな公務員がいたのである。

なにしろ270年にわたって確立されていた幕藩体制から朝廷が親政する新制度に切り替えようというのだから、明治維新とはまさに根っこからの制度改革だった。

それまで「公方様」は大衆の隅々にまで知られていたが、(京都の住人は別として)一般庶民は「御門」とはどんな存在かほとんど知らなかった。大衆にしてみれば、「御門」が親政する政府のもとで自分たちの暮らしがどうなってしまうのか不安なことであったろう。

その様な状況下で、新政府が国民の信頼を得るためには、まず最初に、これから行う政治の基本を国民に周知し、国民の不安を拭い去る必要があると考えた人物がいる。今風に言えば、マニフェストをつくることを考えたのである。

この卓見の持ち主は、坂本龍馬によって新政府にリクルートされた福井藩士・三岡八郎(後の子爵・由利公正)である。彼は「議事の體大意」と題する案文を一夜で書いた。簡潔明快にわずか五行にまとめたのである。慶應4年(1868年)3月14日、天皇が神に誓うという形式で発表された「五箇条の御誓文」は、三岡の書いた原案に福岡孝弟や木戸孝允が筆を入れたものである。言うまでもなく、「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ」に始まる明治政府の大方針である。

三岡は、現在の財務省に当たる役所(「金穀出納所」、「会計事務所」、「会計官」とめまぐるしく改名し、明治2年(1869年)7月の職員令で「大蔵省」となった)を取り仕切った。

就任当初の緊急の業務は、幕府征討軍の戦費調達であった。急場をしのぐには京大阪の豪商富豪から借り入れるしかない。ただ、政府が借り上げたままでは民間経済が資金の流通に窮し、経済が逼塞するおそれがある。そこに気配りを忘れなかったことが三岡らしい。彼は紙幣を発行して民間経済の流動性を補うことを考えた。

だが、そもそも紙幣がうまく流通するかどうかが問題だった。江戸時代の正貨は金銀銅の三貨で、国民は紙幣に慣れていない。いつでも正貨と兌換できるようにすれば紙幣の信用は維持されるだろうが、新政府には兌換にあてる正貨の蓄えがなかった。不換紙幣でいくしかない。そこで三岡が考えたのは「通用十三年限」という期限付きの紙幣を発行することだった。いわゆる太政官札である。これを民間に貸し付けることにした。

貸付を受けた者は、借りた額の十分の一相当額を13年間にわたり返済する。つまり3年分は利子に相当する。通貨発行ではあるけれども、財政投融資による民富策ともいえる妙策である。

しかし、予想されたように、太政官札の価値の下落を防ぐのは大変なことだった。他国に例を見ないタイプの紙幣発行に対する外国公使館の風当たりは強く、国内の批判も絶えなかった。しかし、とにもかくにも、この財源措置があって朝廷の国内統一が可能となり、日本は統一国家として近代化への道を歩み始めたのである。

太政官札だけでなく新政府を支えるためにも「信用」こそが大切であると三岡は確信していた。造幣局を設置し、幕府の度重なる改鋳で混乱していた金銀銅貨の整備にも取り掛かった。彼は慶応4年に官吏の「月給金定額」(最初の公務員給与表)を定めたが、貧乏所帯の政府にしては高給である。官吏が汚職の誘惑に負けて政府の信用が落ちることを危惧したのだった。五箇条の御誓文だって民の政府に対する信用を確保するためのものだった。

三岡八郎は明治2年2月に辞職して故郷福井に帰った。廃藩置県のあと東京府知事に登用されたが中央政府には戻らなかった。たった1年3ヶ月の国家公務員生活だったが、彼の柔軟な思考と果断な実行力から今日の公務員が学ぶところは多い。


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