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第1編 人事行政

第1部 人事行政この1年の主な動きと今後の課題

人づくりの巨魁−田沢義鋪


元・総務事務次官

嶋津 昭

過日、近所の友人から、1冊の本がとどけられた。下村湖人著「この人を見よ−田沢義鋪の生涯」である。幼い頃読んだ「次郎物語」を思い出し、軽い気持ちで読み始めた。主人公は、明治43年内務省に入り、直ちに静岡県属として、行李一つ提げて赴任する。このあたりで、昭和42年自治省に入り、同じように静岡県庁の財政課の一職員として勤務した私の人生と重なり、惹きいれられるようにして、一読し、深い感銘を覚えた。

田沢義鋪氏は、明治18年、佐賀県鹿島市に鍋島支藩の藩士田沢義陳を父としてうまれた。旧制五高、東京帝大法科を経て、内務省にはいる。内務省での官歴は、明治43年から大正9年までの10年間に過ぎず、その間の主な公職は、静岡県の安倍郡の郡長(4年)、本省に復帰しての明治神宮造営司総務課長(5年)にすぎない。ここまででは著者が「明治以降で尊敬する3人をあげよといわれたら、躊躇すること無く福沢諭吉、新渡戸稲造と田沢をあげるだろう」といわれる理由は、理解し難い。

田沢は、内務省を離れた後、東京市助役、昭和8年以降は、勅選されて、貴族院議員(終身)などの公職を務めることになるが、田沢義鋪の生涯の偉大なる足跡は、公職歴を含めてその人生の全ての道筋において、我が国の青年、労働者更に進んで広く国民と一緒になって、これからの地域、社会、日本をより良い方向に進ませるべく人づくりに渾身の力を傾けたことに示されるのである。

著者は、この評伝において、田沢の人生において、三つの大きな転機があったことを示唆している。

第一の転機は、大学卒業前、日露戦争後我が国の支配下にはいった満鮮地方を視察したことである。田沢が見たのは、戦勝を笠に着た日本人の傲慢な行動であり、特に、中国の苦力に対する非人道的な取り扱いであった。「海外発展?それが何だ。地図の上でどんなに発展しようとも、道義亡くして何の国家だ。国民性を人類的、世界的立場に立って矯め直す、とりわけ政治と教育において然りだ。」と結論づけた。田沢は、自分の将来をこれに賭ける決心を固め、行政官としてのスタートをきることとなった。

田沢は、内務官僚として、地方、中央での公務に励みながらも、ライフワークと定めた青年の人づくりに正面から取り組む。まず、静岡では農村の青年の指導者を蓮永寺というお寺に集め、自らも一緒に泊り込み10日間の研修をおこなったのを皮切りに天幕に泊り込む合宿など青年の研修に打ち込んだ。さらに、明治神宮の造営に際し、全国の青年の参加を呼びかけ、静岡県をはじめ全国から、1万5千人の青年が昼間は工事に、夜は、各界名士の話を聞く研修に励んだ。神宮の亭々たる森はこのような青年の努力の成果であり、日本青年館はこの後、我が国青年団のメッカとなったのである。

第二の転機は、渋沢栄一氏に請われて、内務省を退官し、協調会という民間団体に参加したことである。時の内務大臣は、恩給も付かずに辞めていく田沢に感謝し、君の骨は拾うと申し出た。田沢は、これに対して、「閣下、自分の骨は、自分で拾います。閣下にご心配はおかけしません。」と事も無げにこたえた。協調会で、田沢は、労使融和路線はとらず、社会政策の徹底と労働者の団結権の保障を主張し、ILO会議に労働者代表として参加する。ここでも、田沢本来の活動は、労働者を募って行う泊り込み研修を通じての人づくりであった。

第三の転機は、大正12年に起こった未曾有の大災害となった関東大震災である。このとき協調会の会館の屋上に立ち、暗黒の都を眺めつつ、震災の騒乱の下で起きた朝鮮人虐殺事件に深く心を痛めた。田沢は、流言蜚語による被煽動性と他民族に対する慈愛の欠乏、これを我が国民性の二大欠陥として捉え、広く国民の心をより良き社会実現に向けて結集し、道義国家の建設を目指す国民運動を起こす決意を固めたのである。田沢は、ただちに政治啓発団体「新政会」を設立し、後半生を「道の国・日本」の完成を目指す国民啓発の大事業を使命としたのである。田沢のこの取組は、その後の我が国の世界大戦への突入に伴い、大きな試練にさらされることになる。田沢は、そのような環境の下にあっても、青年団運動が軍国主義の道具になることを強く拒み、さらには、貴族院議員として、議政壇上において反軍演説の斉藤隆夫代議士を守る「憂国の雄弁」を行うなど最後まで自己の信念を通した活動を続け、昭和19年、香川県において、遊説旅行の途中59歳の若さで客死する。

私が田沢義鋪氏の生涯に感動を覚えるのは、氏の精神が性善説にたって、限りなく建設的であり、かつ限りなく積極的であるためである。

田沢氏は、我が国民性の欠陥を見通しながら、これに決して諦めず、日本人の心の底に潜む「義勇奉公」の精神と外国人に対する寛容の態度を信じ「一切の人々が一緒になってどこまでも理想を追求し、進展してゆく」ことにより、道の国・日本の完成を信じたのである。

私は、田沢氏のこの姿勢に明治人の素朴であるが、かぎりなく健康で前向きな精神を感じ、21世紀の公務員が目指すべき究極の人間像の一端を見る想いがする。


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