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第1編 人事行政

第1部 人事行政この1年の主な動きと今後の課題

内務省の大先輩から教えられたこと


元・水産庁長官

佐竹五六

1955年農林省に入省した我々が直接謦咳に接し影響を受けた先輩官僚は、おおむね1920年代以降(昭和期)に入省した方々であった。これらの方々は、敗戦を挟んで戦時統制経済の運営から、占領下の経済復興と戦後諸改革を遂行するという役割を果たされた。

戦時下、請われて実業界から商工大臣として入閣された藤原銀次郎氏は、その仕事振りを、理念に走り生産現場を知らないから成果は上がらず、しかも独善的である、と手厳しく評価を下されている。小生の接した限りでも、統制派(右)から戦後改革推進派(左)まで、その政策思考にはかなり幅があったが、「国政を動かすのは自分たちである」と言う強烈な自負を背景とした独特の思考と行動様式を持っておられた点においては共通であり、その限りで、藤原氏の評価は的を射ていたように思う。それは、また、戦後改革の一環として実現した公務員制度の理念から凡そ遠いものであった、といってよいであろう。

しかしながら、明治以来日本の官僚の伝統のうちには、省庁の垣根を超えて、藤原氏の気付かれなかった全く異なった側面があったのではないか。筆者は、偶然の機会に、そのことを内務省の2人の大先輩、後藤文夫(元農相、内相、明治41年入省)桑原幹根(愛知県知事6期)両氏から教えられた。

政策を「論理の体系」として霞ヶ関の机の上だけではなく、それが施行される具体的な場の条件─執行担当者、受け手、自然的、社会的、経済的環境─に即して考えよ、という教訓である。

1962年、秘書官として、農林大臣のお供で愛知用水の通水式に出張した折、配車の都合で短時間ではあったが、クルマに余人を交えず同乗させていただく機会に恵まれた。

後藤さんからは、若かりし日神奈川県勧業課長を務めた折、人力車により県内出張した経験が、後々までも非常に役に立った、と伺った。現場の関係者から聞かれた話を、現地の地形地物や人々の暮らしぶりに結び付けて掘り下げて考えるには、人力車は格好の乗り物であったのであろう。航空機、新幹線、高速道路をフルに使った最近の出張では、不可能である。また、IT技術を如何に駆使しても、この様な経験を通じて得られるものに代替することはできないであろう。

桑原さんからは、知事は県内町村役場を訪れる機会が結構多く、行政分野全般にわたって現場の実態を知る良い情報源となっていたが、最近は合併が進んだので、県内隅々まで目が行き届きにくくなった、と言う嘆きを伺った。いずれも、車中の何気ない雑談ではあったが、小生にとっては貴重な含蓄のあるお話であり深く心の底に突き刺さり、その後、様々な機会に想起された。

確かに内務省は、とかく理念に走りがちな各省の行政に対する民心の動向等について、治安という限られた視角からではあったが、敏感であった。知事以下都道府県行政の枢要のポストを全国統一人事で固めた、民心の動向を察知する情報システムが機能していたとも評価できよう。また、明治末期からは、民衆を統治するということが何を意味するかを皮膚感覚を通じて知らしめるという狙いもあったのであろう、若いキャリアー官僚を地方行政の第一線(郡長)に送り出していた。昭和40年代から農水省で始められた若手上級職入省者の市町村への出向制度も同様な狙いを持っていたが、その成果は現実の行政に活かされているであろうか。

農林省においても、小作官制度を創設された石黒忠篤氏、経済厚生運動に「中心人物」の観念を導入された小平権一氏、その系譜に連なる方々の現場重視の伝統があり、入省当時「わからぬ時は農村にいけ」と言う教育を受けた。その雰囲気を芹沢光治良氏が「人間の運命」でビビッドに描かれている(新潮文庫2巻10章)。

われわれは、夜行列車の硬い座席─寝台券は勿論、指定席も取れない夜行出張が常識だった─で隣り合わせた年老いた農民や農業団体職員から、問わず語りに様々な話を聞いた経験を持つ最後の世代であったかも知れない。

交通機関、情報機器の飛躍的発達にも拘らず、中央と地方の距離は却って遠くなったようである。格差問題が、昭和初期と同様大きな政策課題としてクローズアップされている現在、我々が、言い訳はあるにもせよ、日本の官僚のよき伝統を後代に承継しなかったことが反省される。政治体制や社会的経済的事情が大きく変わった現在、以上の事実がどれほど意味を持つかという意見もあろうが、55年体制下、様々な批判はあるにせよ、ある意味でこのような機能を果たしていた、いわゆる族議員の機能も最近はとみに衰弱しているのではないか。


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