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第1編 人事行政

第1部 人事行政この1年の主な動きと今後の課題

「石油危機」に立ち向かった官僚群


元・通商産業審議官

坂本吉弘

1973年秋に世界を襲った「第一次石油危機」も、人々の記憶のなかで既に風化しつつあります。けれども、本件ほど日本のエネルギー供給基盤の脆弱性を露わにし、国民の生活をパニックに追い込むほどの衝撃を与えた出来事は数少ないと思います。

同年10月、第四次中東戦争を契機として、アラブ産油諸国は敵対国に対する原油供給を毎月、5%ずつ削減すると通告しました。わが国も例外ではなく、石油供給の先細りを心配して国民は漠然たる不安を抱き、石油政策をあずかる資源エネルギー庁石油部の動静に全国民の注目が集まっていました。

石油部は既に臨戦態勢にあり、山形資源エネルギー庁長官の指揮の下、海外情報の収集をはじめ、各方面からの要請に対応すべく、徹夜の連続という状況にありました。だが職員の疲労は日に日に濃く、省内では、この緊急事態に備えて、石油の知識や経験がなくても体力だけは屈強な若者が急遽集められ、石油部に投入されました。私もその一員でした。

11月も半ばを過ぎると日本列島には厳しい寒気が訪れ、北海道や東北で灯油を求めて列をなす人々の不安な表情がテレビで映し出されました。全国から石油を求める声は直接石油部につながれ、増設された受話器は一日中鳴りっ放し。北海道の一主婦からの電話をとった私の耳に「うちにはおじいちゃんがいていま病に伏せっています。どんなに高くてもいいですから灯油を回していただけませんか」という悲痛な声が伝わりました。だが私達に出来ることは、「私共も懸命に対策を検討しています。いましばらくお待ち下さい」と電話の前で頭を下げることだけでした。じりじりと石油の値段が上がり、街から石油が消えて「買い占め、売り惜しみ」と報じられるようになりました。

国民の不安は不満に変わり、「石油無策」「国民生活軽視」の罵詈雑言が国会の全委員会で通産省の幹部に浴びせられました。だが、当時の日本に石油の備蓄は無く、流通経路の把握さえままならない状況では、国の先行きを懸念しながらも、なす術もなく非難の洪水を甘んじて受けざるを得ませんでした。

山形長官以下庁の幹部は、何ら有効な対策をとり得ない焦燥感にかられながらも、終始平静を保たれ、居ずまいを正して内外の批判に対処し、かつ私達を指揮されました。

12月も半ばを過ぎた頃から、一向に改善しない事態に備えて、国民の各界各層に石油消費の節減を強制する措置の検討が指示されました。石油配給制の導入です。長官は「"乏しきを憂えず、等しからざるを憂うる"という言葉がある。"公正"を第一に期してくれ」と言われました。この国が奈落の底に沈みゆくような暗い気持ちになりながら、各分野を所掌する省庁と折衝をはじめました。各省の立場は立場として、どの省も決して無理は言われませんでした。いかなる衝にあれ、国の直面する苦難を共有しようとする日本の官僚社会の姿勢が見えて、暗いトンネルのなかで大きな救いとなりました。いつの日か私もかくありたいと思いました。

その後産油国側の通告が緩和され、危機は去り、翌年6月、長官は退官されました。職員を前にした挨拶の中で「諸君はあの劣悪な環境のなかで、身を挺してよく私を助けてくれ・・・」と言って絶句されました。万感の思いがあふれているように思いました。

この時を境に、日本には石油備蓄法が制定され、省エネルギー技術が開発され、電力の石油依存度は格段に引き下げられました。その蔭に、未曾有の危機に対して、"素手"で立ち向かった官僚達の群像を忘れることは出来ません。

山形栄治長官、長官を補佐し、疲労の極みにある職員を終始励まされた北村昌敏次長、鉄人と呼ばれて昼夜の別なく最前線を駆けめぐられた熊谷善治石油部長。既に幽明境を異にされたこれらの人々が、この国に残された魂魄は、その後の日本人の全ての心にいまも宿り、国の行く末を見守っておられるように思います。


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