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第1編 人事行政
【第1部】 今後の幹部要員の確保・育成の在り方 〜民間企業や諸外国の実態を踏まえて〜
第1節 幹部要員の確保・育成の歴史的経緯及び現状
1 歴史的経緯
(1) 旧官吏制度
第二次世界大戦前の国家公務員は、国と公法的な勤務関係に立つ官吏と、私法上の雇用関係に立つ雇員・傭人に区分されていた。官吏は「天皇の官吏」として天皇及び天皇の政府に対し忠実無定量の義務を負うとされ、高等官と判任官に分かれていた。このうち高等官になるための試験が文官高等試験であり、試験に合格した後、各省の面接を受け、採用が決まっていた。文官高等試験を経て採用された官吏(高文官僚)が、幹部候補と位置付けられていた。なお、当時、技官は選考採用となっており、高文官僚とは一線を画されていた。
高等官は、さらに勅任官と奏任官に分かれていた。これは、任命における天皇の関与の違いによるものであり、勅任官の代表例は、本省次官、局長である。奏任官の代表イメージは、今に当てはめれば本省課長、企画官クラスということになろう。文官高等試験合格者が次官まで昇進したとすると、そのモデルはおおむね以下のとおりである。
なお、当時の仕組みにおいては、事務官や書記官に任ぜられた上で具体的なポスト(例えば書記官の場合、○○課長)に配置されていた(任官補職)。 当時も判任官から選考を経て、高等官に昇進することは制度として認められており、現実に登用の例もあったが、その場合も就けるポストは限られていた。
このように戦前期においても、試験による採用を原則としていたが、大正期から昭和にかけての一時期、政党の勢力が高まる中で、自由任用の範囲が拡大され、いわゆる猟官の弊害がみられた時期もあったとされている。
(2) 日本国憲法制定後
日本国憲法は、「すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。」(憲法第15条第2項)と規定している。官吏制度についても、日本国憲法の施行とともに抜本的な改革が行われることとなり、公務員は「天皇の官吏」ではなく、「国民全体の奉仕者」として位置付けられることとなった。
また、旧官吏制度下においては、上記のとおり、まず官吏という身分を付与し、しかる後に具体的ポストを割り当てるという「任官補職」の考え方をとっていたが、現行の公務員制度においては、公務員の勤務関係は各官職との間で生ずることとなり、具体的な官職に人を充てることが任命であると整理されることとなった。
これに伴い、採用試験も戦前期のような身分の付与を目的とするものではなく、採用の対象となる官職にふさわしい人材を選抜することを目的とすることになった。
現在の試験体系においては、Ⅰ種、Ⅱ種、Ⅲ種が基本となっており、Ⅰ種は大学卒業段階の知識・技術及びその応用能力を必要とする程度、Ⅱ種は大学卒業程度、Ⅲ種は高等学校卒業程度とされている。Ⅰ種試験は、行政職俸給表{1}の場合、2級の官職(係員級)に採用するための試験として実施されている。このように制度上は、Ⅰ種試験に合格して採用されたからといって、直ちにその者が幹部要員となることを意味するわけではないが、現実的には、多くの府省において、Ⅰ種試験採用職員について、本省幹部要員として育成する人事運用が行われている。
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