第29回(平成28年)

 

 

一つに専心する崇高さ

 

 
 読売新聞特別編集委員
 橋本 五郎  氏

 

 

私が最も尊敬する作家の一人である吉村昭さんに「一つのことのみに」というエッセイがあります。『縁起のいい客』(発行・文藝春秋)という本に収録されています。この中で吉村さんは、一つのことに専心している人への賛辞を贈っています。

吉村さんが少年時代、お父さんが当時専売だった煙草の工場を見学し、とても興奮して帰ってきました。その頃は今と違って、印刷された袋に煙草を詰めるのは機械ではなく、全部女性たちの手作業でした。そこでお父さんは、彼女らがパッと正確に20本つかんでは「敷島」の箱にどんどん詰めていくのを目の当たりにします。

驚嘆したお父さんは女性たちに「どうしてできるのか?」と聞きました。返ってきた答えは「パッとつかむと20本。何度つかんでも20本。たとえば21本つかむと100本つかんだような気がし、19本だと4、5本の感じがする」でした。お父さんはそこに「神業」を見ると同時に、一つのことに専念しているすごさをみたと吉村さんは思うのです。

人事院総裁賞の選考にあたりながら、いつも思い浮かべるのは、吉村さんのこのエッセイでした。応募作品にはいずれも、人知れず一つの仕事に専心している人々の姿があります。今年度受賞された個人、職域部門のどれもが長い間、一つのことに誇りをもって取り組んできた姿があります。

個人部門で受賞された環境省国立水俣病総合研究センター国際・総合研究部長の坂本峰至さん。世界の水銀研究をリードすることができた背後には、水俣病から子どもを守ろうとする強い使命感があったのでしょう。海上保安庁横浜海上保安部巡視船首席整備士の西野修次さんは、41年間、緊張の連続だったと思います。ちょっとした油断や手違いが航空機の事故につながりかねないという恐れを常に持ちながら、業務に専念してきたのだと思います。

吉村さんと並んで、私が愛読してきた山本周五郎の文章を少し長いのですが、紹介したいと思います。『小説日本婦道記』(発行・新潮社)の中の「松の花」で、佐野藤右衛門が妻の死にあたって思うくだりです。遠隔の地で家族と離ればなれになったり、あるいは決して目立つことなく、自らの仕事に専念している国家公務員の姿とだぶって見えるのです。

「世間にはもっと多くの頌(ほ)むべき婦人たちがいる、その人々は誰にも知られず、それとかたちに遺(のこ)ることもしないが、柱を支える土台石のように、いつも蔭にかくれて終ることのない努力に生涯をささげている。……これらの婦人たちは世にあらわれず、伝記として遺ることもないが、いつの時代にもそれを支える土台となっているのだ。……この婦人たちを忘れては百千の烈女伝も意味がない、まことの節婦とは、この人々をこそさすのでなくてはならぬ」

(人事院総裁賞選考委員会委員)

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